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カツラの葉っぱ 大好き!

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うたの旅人

土曜の朝日新聞にbe「うたの旅人」シリーズが連載されているが、時として、なつかしい曲や忘れがたいエピソードに遭遇するので、要チェックなんですね。
なお、「うたの旅人」シリーズといえば、大使の場合テレサ・テンを外すわけには・・・・いけません♪
代筆したラブレター テレサ・テン「時の流れに身をまかせ」

・海ゆかば
・ルビーの指環
・オバちゃんの夢かなえた
・アルプスの少女ハイジ
・ケルトの旋律がいいですね
・カスバの女
・星の流れに
・愛しのクレメンタイン

朝日放送うたの旅人



<海ゆかば>
 この歌は賛美歌がルーツと朝日beが延べているが・・・シンプルでも深いメロディーが、なるほど、賛美歌だなあと思いあたるのです。

 だが、戦後長いあいだタブーのように忌避されてきた歌でもあるわけで・・・
カラオケ大好きの大使であっても、酒の席でこの歌を歌うことはないのです。

朝日beのサブタイトルが「深いところで人を鼓舞した」となっているが・・・
この歌が流れると、思わず「気をつけ」のスイッチが入ってしまう大使である。
大使のツボを突くこの歌が、軍国日本と直結するのがなんともやる瀬ないというか。
いい歌なんですけどね。

海ゆかば

10/20の朝日beの「海ゆかば」を紹介します。

10/20賛美歌がルーツだった 信時潔作曲「海ゆかば」より

海ゆかば みずくかばね
山ゆかば 草むすかばね
大君のへにこそしなめ
かえりみはせじ

 作曲家の信時潔が1937年に作った曲。歌詞は万葉の歌人・大伴家持の作で、代々天皇家に武をもって仕えてきた大伴氏の言い伝えを、家持があらためて歌ったとされる。

 津山藩出身の吉岡は戊辰戦争で官軍として戦い、維新後は外務省に勤務、国交を求めて朝鮮半島の釜山に渡りました。ここでキリスト教に出合い、煩悶の末、信者になり官を辞しました。後半生は各地の教会の牧師を務めました。
 1887年、大阪北教会の牧師の時に、三男の潔が生まれました。昭和の戦争の時代に第2の国歌ともいわれた歌「海ゆかば」の作曲者、信時潔(のぶとききよし)です。

 北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突した1937年夏以降、日本は本格的に戦時体制に入った。日本放送協会は国民精神総動員運動の一環として、万葉集から大伴家持の歌を選び、信時潔に作曲を依頼、この年の10月、放送された。
 信時の戦後の回想によると、首相か大臣かの「おえら方」の放送の前に「聴取者の気分を整えるために何か歌がほしい」と依頼されたという。つまり、放送式典のための音楽で、本人も「ごく小さい仕事です」と述べている。
 その楽譜が「国民唱歌」として全国の小学校に配られ、国民統制組織である大政翼賛会が、意識高揚に向け式典などで歌うよう強力に指導した。音楽が国策に利用される時代だった。

 この歌がにわかに「特別扱い」になったのは、潜航艇でハワイの真珠湾をめざした特別攻撃隊の戦死報道(42年3月)で放送されたあたりからだった。
 さらに、山本五十六連合艦隊司令長官の戦死、アッツ島玉砕などの悲劇的なニュースには、この歌がきまって流された。敗色が濃くなるにつれ、この歌はいっそう、鎮魂歌の意味合いが濃くなった。
 「本来の目的と違って、鎮魂歌として歌われたのは、本人も不本意だったようです。この歌は時代の空気にあったのでしょう」と信時の孫で信時潔研究家の信時裕子さんは指摘する。

戦時中、国民学校の校庭で級友を疎開地に送り出すときに歌ったという「わだつみのこえ記念館」館長の高橋武智さん(77)は「ぼくは歌いたくないし、聞きたくもない」とはっきり言う。
「確かに美しい曲だ。だが、人を駆り出す装置だった。軍艦マーチよりも、もっと深いところで、人を鼓舞した。旋律と詞を切り離せる人はいいが、ぼくは切り離せない」

 信時は戦後、公職につかず、ひっそりと暮らした。「海ゆかば」が、結果として若者を戦場にむかわせたことに、自責に似た思いがあった、といわれる。




<ルビーの指環>
80年代を代表する「ザ・歌謡曲」といえば、この「ルビーの指環」なんでしょうね。
流行っていた当時は、カラオケで歌うには


3/17ルビーの指環より
ルビーの指環
 81年2月に発売された「ルビーの指環(ゆびわ)」が134万枚。4月リリースのアルバム「Reflections」は165万枚売れ、80年代最大のヒットアルバムとなりました。前年の8月に最初にシングル曲として発売され、動きが鈍かった「SHADOW CITY」、2曲目「出航 SASURAI」も後から「ルビーの指環」を追いかけるように売れました。

 曲、歌い方、詞、編曲の4点ともメガヒットに欠かせない要素でした。テレビ朝日系の「西部警察」で俳優としても人気だった寺尾さんが、自ら作曲した中低音中心の曲を、つぶやくようにクールに歌いました。青山近辺を「風の街」と呼ぶ松本隆さん(62)が、大人の恋愛を掌編小説のように描いた詞をつけ、井上鑑(あきら)さん(58)が編曲者としてフュージョンやジャズのセンスをちりばめました。




<オバちゃんの夢かなえた>
今回のbe「うたの旅人」は、八神純子「みずいろの雨」です♪

「みずいろの雨」はいい歌だとは思うけど、八神純子という歌手には何の思い入れも無かった大使である。
でも、「うたの旅人」が伝える彼女のエピソードがいいんですね♪

朝日デジタルではこの記事は見えないけど、検索方法を変えたら見えたので紹介します。

1/21オバちゃんの夢かなえたより
みずいろの雨八神純子「みずいろの雨」

岩手県大槌町のショッピングセンター「シーサイドタウン マスト」。がれきを撤去した何もない町並みが周囲に広がり、近くを流れる小鎚川を逆流したという津波の勢いに言葉をなくします。そんな光景とは裏腹に、影ひとつなく明るい店に昨年12月22日、歌手八神純子さん(54)が招かれました。地元住民が待ちに待った営業再開初日を飾る記念イベントでした。

 吹き抜けのセンターコートに集まった買い物客は、ニューミュージックよりは演歌を喜びそうな世代が目立ちました。でも、洋楽志向のシンガー・ソングライターは、まったく動じていませんでした。気さくにあいさつをして、子どもの頃に好きだったザ・ピーナッツや自身がよく出演した歌番組の思い出話などを交えながら、自身のヒット曲「みずいろの雨」や「パープルタウン」を満面の笑みで歌いました。より観客の心をつかんだのは、被災者の気持ちに寄り添おうと歌い始めた中島みゆきさんの「時代」でした。〈今日は倒れた旅人たちも生まれかわって歩き出すよ〉。すすりあげる音があちこちから聞こえてきました。

 2日間で計5カ所。大船渡市の児童養護施設でも、陸前高田市の仮設住宅の集会所でも、八神さんは伸びやかな歌声を響かせ続けました。会場に子どもがいれば、夢は信じていれば必ずかなうと伝えた上で、「みずいろの雨」をこう紹介しました。「オバちゃんを有名にしてくれた曲です」

 米ロサンゼルスで暮らす八神さんが海を渡り、被災地に入るのはこれが4回目でした。きっかけは、震災から2日後に帰国して出演したラジオ番組で、「求められたらどこへでも歌いにいきます」と宣言したことにさかのぼります。公開したアドレスに届いたメールへ自ら返事を書き、2カ月後には、避難所での炊き出しライブを実現させました。実は最初は「みずいろの雨」は歌いませんでした。〈くずれてしまえ〉〈あとかたもなく流されて行く〉……津波を連想させる歌詞があったからです。でも被災者から逆に「なぜ歌わないの?」と残念がられ、八神さんはヒット曲のありがたみに初めて気づかされたといいます。「ヒット曲は私の名刺のようなものなんですよね」

「名古屋の社長令嬢」でもあった彼女は、ただ歌うことが好きな少女だったという。
八神さんがヒットを連発し、ベストテン番組の常連だった期間は、実は2年あまり。
86年には音楽プロジューサーのアメリカ人と結婚し、翌年渡米し第一線からは遠ざかっていた。

震災2日後には、ハワイ経由で日本に着いた。その後は2ヶ月に1度づつ、太平洋を往復してきた。すべて自腹である。
「こんなにも日本がいとおしいなんて」自分でも不思議だったそうだ。
一方、新譜の発売や全国ツワーなど仕事も増えつつあるがマネジャーは置かず自らスケジュール管理する。
be「うたの旅人」の記事はこう結んでいます・・・・

「八神純子」は帰ってきた。声だけではなく、身も心も強い女性として。



<アルプスの少女ハイジ>
主題歌「おしえて」

くちぶえは なぜ
とおくまできこえるの
あのくもは なぜ
わたしをまってるの
おしえて おじいさん
おしえて おじいさん
おしえて アルムのもみの木よ

作詞:岸田衿子
作曲:渡辺岳夫
Heidi - Japanese Opening

アルプスの少女ハイジ


今回のbe「うたの旅人」は、待望の「アルプスの少女ハイジ」です♪
この歌の作詞、作曲の裏話など載っていて、大使にとって読みどころ満載になっています。


原作以上に丁寧に描写 アニメ「アルプスの少女ハイジ」より
スイス・マイエンフェルト市は人口2800人足らず、日本人の感覚では「村」と呼びたくなる市です。ここはヨハンナ・シュピーリが1880年に発表した児童文学『ハイジ』の舞台として知られます。マックス・ロイエナー市長(62)によると、それが地域の財産であると市民が自覚したのは日本人のお陰だそうです。1974年にアニメが放映されて以来、はるばる極東から足を運ぶ旅行者が急に増えたといいます。

 もしも、ハイジの故郷を訪ねる予定があるなら、アニメの第1話で予習することをお勧めします。だるまのように着ぶくれしたハイジが、デーテおばさんに連れられて、アルム(牧草地)のおじいさんの元に向かう道行きが、原作以上に丁寧に描かれています。温泉保養地のバートラガツからライン川を渡り、マイエンフェルト市街地を経てデルフリ村へ。そこまでのハイジの表情は暗いばかりです。顔が明るく輝き出すのは、山道に入り、自然を感じ始めてから。森を抜けると同時に、主題歌「おしえて」がかかり、ハイジは荷物を減らすために着させられていた服を1枚1枚脱ぎ捨て、牧草地を駆けていきます。

 アルプスの風景は、飛躍も誇張も超えるスケールだった。アニメのスタッフだけでなく、作曲家の故・渡辺岳夫さんも派遣された。「ドミソの音楽だな、これは」。パノラマの真ん中で、渡辺さんが漏らした言葉に演出の高畑さんは共感した。
 「ドミソを基礎とした西洋音楽の初心に帰るという意味だと受け止めました。渡辺さんは亡くなる前に、『ハイジ』が転機になったと書き残していますが、それだけの力があの大風景にはあった。」 


このアニメと、この歌がものすごく綿密な背景と準備によって生まれたことがわかりました。
とにかく、この歌は希望を喚起する歌だと、以前の日記にも書いたとおり・・・・
ものごとが快調な際には、この歌が頭の中を巡ります。

アルプスの少女ハイジ公式HP



<ケルトの旋律がいいですね>
「庭の千種」とか「ダニーボーイ」とか・・・ケルトの旋律がいいですね。
アイリッシュ・パブでギネスを飲むのもいいが、ケルトの旋律も好きな大使である。
(飲んだくれているばかりではないのです)
朝日の be on saturadyの「うたの旅人」シリーズには常々チェックを入れているんですが、先週は「ダニーボーイ」でした。


失われたものを追想し 「ダニーボーイ」より
 「エメラルドの島」とも呼ばれるアイルランド島は英国の西に位置します。ケルト系の旧教徒が多く、12世紀に英国に征服され、後に併合されました。1949年、アイルランド共和国(首都・ダブリン)が成立しましたが、新教徒の多い北部6州は北アイルランドとして英国に残りました。

 アイルランドにはケルト独自の文化が伝わり、リバーダンスなどのアイリッシュダンスでも知られます。世界的に有名な歌「ダニーボーイ」(別名「ロンドンデリーの歌」)の起源も、英国領北アイルランドにあります。最も古い記録は、19世紀半ばの楽譜集「アイルランドの古曲集」です。北アイルランド・ロンドンデリーの近くの町に住む女性から譜が送られてきたとされ、「曲名不詳」として載りました。フィドル(バイオリン)奏者が奏でた旋律を採譜した、とされています。その前は伝説、伝承の世界です。

ダニーボーイの歌詞は二木紘三さんのHPに出ています。
Danny Boyが素晴らしい♪

ところで、「ロンドンデリーの歌」として歌われたロンドンデリーは「北アイルランド紛争」の震源のような地域なんですね。
美しい旋律のこの歌には、そんな悲しい歴史も絡んでいることも心しておきましょう。


wikipediaアイルランド共和軍より
 1970年代から1990年代にかけての一般に「北アイルランド紛争」と呼ばれる事態において最重要視される勢力である。IRA暫定派は、1971年に導入された治安当局による一斉拘留(インターンメント)や1972年1月30日にデリー(ロンドンデリー)で発生した「血の日曜日事件」など、「イギリスによるアイルランドへの暴力的抑圧」を背景に人員と規模を拡大させ、プロテスタント系武装組織や北アイルランドに駐留する英軍や北アイルランド警察(警察のほとんどがプロテスタントであった)にゲリラ攻撃を加えた。




<カスバの女>
地獄のサウジアラビア出張の際に、不遇の大使をなぐさめてくれたのが「カスバの女」ですが・・・・

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おまけに、この地域は今日から砂嵐(sand storm)が始まったのです。
ゴーグルを着けてのお仕事でしたが、風は強いは・・・襟から袖から細かな砂が進入します。
耳の穴を触ると、砂でジャリジャリしています(ウェーン)

ホテルに帰って、洗濯とシャワーを同時進行ですまして、ノンアルコールビールをあおって
やっと、人心地がするという有様です。

こんなときは、ちあきなおみのカスバの女でも聴いて、元気を出すしかないようです。
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土曜日、朝日の「うたの旅人」はその「カスバの女」でした。

「カスバの女」より
「日本の演歌では、ものまねになる」と思った大高は、舞台を外国にしました。戦時中に見た「望郷」のシーンが浮かびました。アルジェリアの無法地帯カスバに逃げ込んだギャバン扮するお尋ね者を酒場女に置き換え、題名を「カスバの女」に決めると「言葉がわいてきて、その夜、一気に書き上げた」(74年『演歌夜噺』)といいます。カスバの路地で酒場の女がひとり、砂漠の果てまで流れてきた我が身を呪う。雇われ兵士と女とののっぴきならない出会いと別れ…。そんなストーリーでした。

 テイチクは歌手にエト邦枝を考えていました。低いアルトと日本人離れした顔立ちが、この歌のイメージと重なったのでしょう。けれど、不幸なことに、映画主題歌として発売された「カスバの女」は、肝心の映画が中止になったため、社内の話題にもなりませんでした。失意のエトは3カ月後に芸能界を去り、小田急線の下北沢駅近くに歌謡教室を開きました。


13人もの歌手が、この曲をカバーしているそうですね。
ナツメロと言うよりも、スタンダードと言ってほしい曲ではないでしょうか。

ところで「カスバの女」を作曲した孫牧人は、「木浦の涙」も作曲しているんですね。
「木浦の涙」は韓国出張中に、you tubeでよく聴いたものです。
Tears in Mokpo
(曲もいいが、歌手もいいですね)

日本の演歌そのものではないかと思ったが、在日の孫牧人が作曲すれば、どうしても日本テイストがにじむのでしょうね。


韓国映画と歌(22)木浦の涙より
今年は日韓併合100年と言う事で、朝鮮の日本植民地時代の歌を中心に歌で100年の歴史を紐解いていこうと言うのが今年のテーマだそうです。
 コンサートの中で歌われたのは「鳳仙花」、「酒は涙か溜息か」、「木浦の涙」など。植民地時代、音楽的には日本と朝鮮、そして西洋が融合し色々な歌が生まれました。
 「木浦の涙」を作曲した孫牧人(ソン・モギン)は久我山明と言う日本名で「カスバの女」を作曲しヒットさせますが、彼の植民地時代に作曲した「他郷暮らし」(1934年)はまさに、生きるために故郷を捨て、異郷で辛酸を舐める朝鮮の人々の心の内を映した歌です。今でも在日の方々の事を語る映像や集会でこの曲は良く聞かれます。
 

孫牧人は古賀正男にも影響を与えたと言われているが・・・・
孫牧人や古賀正男、そして「木浦の涙」なんかが、演歌のルーツなのかもしれませんね♪



<星の流れに>
バタやんの「帰り船」はカラオケで時々歌うことがあるのです。
「帰り船」を生で歌った世代は我らが父親の世代であり、息子世代が歌うには懐古趣味も甚だしいのだが、酒が入るとついそこまで遡るのです。

復員船の船上から近づく故国を見る復員兵の思いが切々と伝わる歌詞には・・・・
安堵と哀切さと(若しかして怒りと)が混ざったメッセージがあるではないかと漠然と感じてはいたわけです。

朝日新聞の「うたの旅人シリーズ」に「星の流れに」が載っていたが・・・・
「星の流れに」の作詞家が「帰り船」も作詞していたことが判りました。

「星の流れに」誕生のエピソードが菊池章子「星の流れに」に載っています。


清水が「星の流れに」を作ったのには、きっかけがありました。
 46(昭和21)年8月29日、42歳の清水は新宿駅近くの安酒場で、買ったばかりの新聞を読んでいました。紙不足で半ペラの紙面は、東京裁判の詳報のほかは、「食」にまつわる話題ばかり。終戦から1年、町は飢えていました。

 ふと、裏面の片隅にある読者投稿欄に目がとまりました。21歳の看護師からの投書は「顛落(てんらく)するまで」との題名でした。中国から着の身着のままで引き揚げたものの、親も亡く、頼る人もない中、苦労の果てに「『闇の女』とさげすまれるような商売」に落ちていった、という3カ月間の出来事が書かれていました。
 それを清水は何度も読み返しました。怒りがこみ上げてきました。

 「リンゴの唄」は戦後の「夢」でしたが、「現実」はその対極にありました。それが敗戦国の実態だったのです。

 その日の深夜、清水は自宅で歌詞を書きました。「こんな女に誰がした」の繰り返しに、戦争で転落を余儀なくされた女たちの悲しみと恨みを込めました。


作詞家の清水さんは、手を尽くして投稿した女性を探したが、見つからなかったそうです。

国家に翻弄された者の悲しさ、恨みがこの二つの歌によく表れているが、ストレートに国家を出せばプロテストソングという別のジャンルになり、売れる歌にはならなかったでしょう。

ということで・・・・
朝日新聞の土曜日の「うたの旅人シリーズ」には時々、私の思い出のメロディが載るので目が離せないのです。



<愛しのクレメンタイン>
今回は口をついて出た蘇生の調べとして「愛しのクレメンタイン」がとりあげられています。
この曲は、以前、NHKの番組でもとりあげられていて、日記にも書いていたので復刻します。(手抜きですが悪しからず)

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在日の詩人キムシジョン(金時鐘)さんの波乱の人生が、深夜の再放送でオンエアされていた。
放送のバックにときどき「愛しのクレメンタイン」が流れていたが、キムさんのお父さんが歌っていた歌だったそうです。
その歌詞も曲調も元歌に近いもので、日本で歌われる「雪山賛歌」とは別物でした。
だいたい、「雪山賛歌」として明るく歌われるのが間違いのもとで・・・
山男たちの無頓着な替え歌が、元歌を冒涜していたのかもしれないですね。

In a cavern, in a canyon,
Excavating for a mine
Dwelt a miner forty niner,
And his daughter Clementine.

元歌はアメリカ西部の49年野郎の娘が川に落ちて死んだ話であり哀愁を帯びている。一攫千金の夢にとりつかれ、辺境の地まで娘を連れてきたものの、苦しい生活を強いることになり、挙げ句の果てに死なせてしまった。この49年野郎も日帝時代の朝鮮のように悲惨である。

キムさんは終戦後の四・三事件の際に済州島から命からがら脱出し、猪飼野にたどりついたそうです。
ウィキペディアの済州島四・三事件によれば・・・・
四・三事件(1948年)の難を逃れようとした済州島民は再び日本などへ避難あるいは密入国し、そのまま在日コリアンとなった者も数多い。事件前に28万人いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したそうです。

放送でも、猪飼野の在日としては、済州島からの避難民が多いと言っていました。
ところで、金時鐘さんは「夜を賭けて」を著したヤンソギル(梁石日)さんとも友達だったようです。
朝鮮特需の頃に大阪城の工廠跡から遺棄鋼材を食って(カマシテ)きた仲間だった?ようですね。
放送では四・三事件の生き残りのおばちゃんの証言とか、朝鮮戦争時の弾薬輸送列車の阻止行動とか、初めて知る内容ばかりでした。

過酷な過去を穏やかに語るキムさんに、クレメンタインの歌がよくマッチしていました。
(11日に大阪城の横を流れる川を見て、アパッチの川やと感慨にふけるドングリでした)
共産党から除名されたキムさんの言葉が胸を打ちます。

~時代が大きくカーブを切り、人類史的に見ても誇るべき憲法が損なわれようとしているのに、現代詩の表現に時代の陰りはほとんど見えません。不安なおののき一つ見えない。今の日本ほど詩が軽んじられている国は地球規模で見てもありません。~

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韓国が絡むエピソードとしては、たどりつけない対岸というのもあります。
このときの曲は「イムジン河」ですね。
この前亡くなった加藤さんが若かりし頃、フォークルの一員として歌っていたし、映画「パッチギ」でもテーマ音楽のように出てきましたね♪

愛しのクレメンタイン
映画「パッチギ」より イムジン河





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